毛公鼎

毛公鼎

国家宝蔵

国宝紹介

「毛公鼎」は高さ53.8cm、奥行き27.2cm、直径47cm、重さ34.7kgであり、西周末期の遺物だと見られる。

この鼎は清道光年間に出土し、偶然陝西省岐山県で発掘された後、人気のあるコレクションの対象となり、清朝後期に数回転売された。その中には陳介祺氏、端方氏などの有名なコレクターがいた。最後に葉恭綽氏が買収し、1937年に中日戦争が勃発し、葉氏は香港に避難し、毛公鼎を甥の葉公超氏に渡し、「これは販売せず、いつか国に捧げられる」と命じた。そして戦況が落ち着いた後、甥は葉氏に返却した。しかし、経済困難のために鼎を担保にし、銀行に借金を申し込んだ。その後、豪商陳詠仁氏により、大金を使って買い戻された。戦争が終わった後に国民政府に寄付され、1948年には国民政府とともに台湾に移転し、国立故宮博物院鎮院の宝となった。

この鼎の外形は素朴で重厚だが、内壁の銘文には西周の「宣王中興」と記されており、文献には記載されていない毛公の最も詳細な史料を提供している。「国の重要な宝物」という名声に見合った作品である。近年、毛公鼎翠玉白菜肉形石は合わせて見ると、食べられない別種の「酸菜白肉鍋」と呼ばれ、広く民衆から愛され続け、故宮博物院を訪れる際には必ず見られる文化財である。

国宝鑑賞

   毛公鼎は全体が簡素な造りであり、端正で重厚、そして大きな口の形状をし、腹部は丸くなっている。半球形の器体は三獣の足の上に立っており、鼎の口には2つの太い立耳がある。
   器全体の胴体は無地であり、口の下縁部分だけに二重環紋と凸弦紋が飾られている。器内には500字の銘文が鋳造され、これまで知られている中では最も長い青銅器の銘文である。

重厚な鼎耳。

   「毛公鼎」銘文の内容前段は、周宣王が新たに即位した当初に、叔父である毛公𢉩に、先代の王が周室を建てた際の辛さを教え、国を興そうとしたことを述べた内容である。
   後段は、毛公の要職と貴重な物品を詳しく記した内容である。文末の部分には、毛公は王恩に感謝し、鼎を作り後世に伝えたことが示されている。

毛公鼎の銘文の拓片。

参考資料

    1. 張光遠、『西周重器毛公鼎』、台北:張光遠、1973。
    2. 国立故宮博物院編集委員会編、『千古金言鐘鼎』、台北:国立故宮博物院、2011。
    3. 蔡玫芬編集、『精彩100:国宝総動員』、台北:国立故宮博物院、2011。
    4. 游国慶編、『吉金耀采:院蔵歴代銅器』、台北:国立故宮博物院、2015。

所蔵機関

1925年10月10日に故宮博物院が設立された。中国清朝の皇室に収蔵されていた書画文物は数万点を数え、北京の紫禁城見学も一般開放された。1937年に日中戦争が始まり、故宮博物院の文物は南方に移転され、1945年戦後になりもとに戻った。1948年国共内戦のため、故宮博物院の所蔵品は台湾に移転され、台中霧峰北溝に一時的に保管された。その後台北外双渓に新館が建設され、1965年8月に完成し、11月に正式に外部に向けて開放された。そして2015年12月に、嘉義太保にある南院が正式に開館した。

故宮博物院のコレクションは、宋・元・明・清王朝の宮廷コレクションが元となっており、その後中央博物院準備処の運台文化財に統合された。収集・購入された文化財は約数十万点となり、続々とデジタル化された。それらのファイルは「故宮所蔵資料検索システム」に保管された。その中の一部の文化財のデジタルファイルは、すでに「オープンデータ(Open Data)」サイトに保存され、CC(クリエイティブ・コモンズ) に関し、適正な再利用の促進のために公共に向けて提供しています。

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