康熙台湾輿図

康熙台湾輿図

国家宝蔵

国宝紹介

康熙台湾輿図」は台湾博物館に所蔵されており、同図は現存する最も古い漢文の地図である。完全な台湾全図でもあり、言うまでもなく大変に貴重なものである。さらに、同図は「雍正台湾輿図」「乾隆台湾輿図」の原本となり、台湾の人文・地理・風景の変貌、および政府が管轄する版図の変化が示されているため、学術的な価値が高いものとして知られている。さらに、17-18世紀における台湾の山岳や河川などの地形・兵隊の配属地・都市と田舎の生活を写実的技法で描いている。当時の台湾の、社会・文化・生活上の記録となり、清朝初期における台湾地理に対する認識のレベルが表されている。本図は、歴史・文化・学術などに対し非常に貴重な価値を有するため、2010年に国宝として指定された。

本図が作成された時期はいつなのだろうか。なぜ台湾に残されているのだろうか。これらの疑問は、台湾総督府図書館館長であった山中樵氏の説明により答えることができる。本図は清朝の光緒26年(1900年)に発生した義和団事変の際に、皇宮の内部から流出した後、新竹の鄭氏家族により総督府の関係者に閲覧されたものである。本図は明治35年(1902年)、総督府により買収され、総督府内で展示されていた。そして明治36年(1903年)、大阪で行われた第5回勧業博覧会の台湾館でも展示された。

山中樵氏が述べた通り、本図で表装されている巻き軸には、「台湾番社図」「康熙六十一年黄玉圃撰輯」(康熙61年に黄玉圃が編纂)と書かれている。つまりは、昔は常に画家の黄玉圃、すなわち初代巡台御史であった黄叔璥が、康熙61年(1722年)に描き上げたものだと思われていた。しかし、山中樵氏によると、本図に描かれた、台南の海会寺の隣に教場が設立された時間は康熙38年(1699年)である。そして本図の諸羅県治は、佳里(現在台南市佳里区)にある。その後康熙43年(1704年)に、諸羅県治が嘉義に移された史実が判明していた。すなわち、本図が嘉義移転前にすでに描かれていたことを示している。上述したように、本図の原図が描かれた年代は康熙38-43年 (1699-1704年)の間だと特定され、黄氏により描かれたものではないと考えられる。

国宝鑑賞

   「康熙台湾輿図」は横物である。地図自体(表装が含まれない)の横幅は518cm、縦長は63-64cmであり、知られている限り、現存する最も古い長尺巻物の色付け台湾全図である。
   本図上の文字は楷書で書かれ、地名だけでなく、境界線・マイル数などの関連情報も記載されている。その後の方志(地方紙)、地図より詳細かつ繁雑であり、清朝初期の台湾研究に対し、最適な史料も提供している。本図は絹本に色彩を使用している。台湾西部の南北に延びる山岳や河川などの地形・兵備の配置、および村落生活などの景観を写実的に描いている。
   遠近法により山岳や河川の景色を描き、遠景は高山・中景は陸地・近景は河川が映し出されている。また、当時の漢人・原住民の人々の生活風景もよく表れている。例えば、村落家屋・田園・牛車・船の様子、原住民の鹿捕り・ウサギ捕りの情景、および集落の住宅・ビンロウジの木など、様々な光景が描かれている。17世紀の台湾の風貌を忠実に示すものである。

   地図をよく見ると、赤い実線と黒い点線の2本の線があり、点線上には歩く人や牛車の姿が描かれている。
   赤い実線は陸路営兵と水師の防御線として使われ、北は淡水河から南は東港河に至る。点線は、当時の人と牛が走っていた南北縦貫の主要道路として、北は八里坌社(現在の新北市八里挖子尾付近)、南は沙馬岐頭(現在の屏東県恒春鎮猫鼻頭)まで延びている。
   康煕36年(1697年)、郁永河が来台し硫黄を採掘し、台南から淡水まで北上していた際に、この路線を歩いた。同路線は清朝時代に現れたのではなく、オランダ時代にすでに存在していたのである。

   「康熙台湾輿図」の北部部分を見ると、当時清朝が台湾西部の番社を知り尽くしていた様子が見てとれる。社名を一つ一つ示し、走行距離数がはっきりと書かれている。また、そこに住む人々が鋭い槍や弓矢を持ち、猟犬を連れて梅花鹿や野兎を捕まえたり、獲物や米穀を担いで家に帰る様子が描かれている。しかし、裏山の番社集落については、一語の地名でしか書かれていない。例えば、北部の噶瑪蘭族については「蛤仔灘に合計36社がある」と示されている。
   「康熙台湾輿図」の中部部分を見ると、半線社(現在の彰化市華北里)、柴里社(現在の雲林県斗六市四維、三光里の付近)に軍隊と兵署(役所)の房舎が描かれている。
   ここに駐在した軍営は明鄭時代から始まり、軍隊の食糧問題を解決するために、屯田を施行した。永暦20年(1666)、鄭成功の息子の鄭経が右武衛の劉国軒に命じ、半線に駐在して屯田と開墾が始まった。半線に軍営が設立された故、輿図には四角い木柵・城門・漢人が建てた兵舎が描かれている。
   地図には平民の家屋も示されている。その中の多くのものは、漢人が平埔族に土地を借りて耕作し、一時的な住所として家を建てていたものである。


   「康熙台湾輿図」に含まれる澎湖地図には、明瞭な赤い防御線が描かれている。清朝政府は澎湖に水師を設置し、赤い線が左右の大隊の哨戒ルートである。湾貝嶼と花嶼の間は左営哨戒区、吉貝嶼から西嶼は右営哨戒区である。
   「康熙台湾輿図」が示す平埔族の西拉雅族の分布には、目加溜湾社(Backloan)・蕭壟社(Soulang)・新港社(Sinkan)・麻豆社(Mattau)・哆囉嘓社(Doroko)・大武壠社(Tefurang)が描かれている。
   『諸羅県志』によると、康煕23年(1684)の諸羅の県治、および北路の軍営が佳里興(今台南市の佳里区)に設置されていた。この後康煕43年(1704)に、諸羅県は諸羅山(今嘉義市)に移動された。地図には鯤シン(Khun-sin)も描かれている。
   鯤シンは台湾語の中では、海の上から遠目に、砂州はクジラのような大魚の背中のように見える故に、この言葉を使い海に浮かぶ砂州を表している。他の別称は、海翁線である。現在はすでに陸地に変わり、台南の塩田や町の集落になっている。


    「康熙台湾輿図」における台湾府の地図には、十字通りがあり、府城が東安・西定・寧南・鎮北の4つの坊(地域)に分けられている。大井頭は当時の重要な渡し場であり、商売が繁栄しており、店があちこちに点在している様子が描かれている。
    輿図を見れば、その地にはそびえ立つ巨大な城があり、「紅毛楼」と書かれている。清朝の康煕帝時期の高拱乾による『台湾府志』には、以下の記述がある。「赤嵌城は府治の北西の端にある。周囲の広さは四十五丈三尺、高さは約三丈六尺余り。姫垣が設置されてないため、城と呼ばれてもただの楼台にすぎない」。そのため本図には「紅毛楼」と表記されている。これがオランダ時代のプロヴィンティア城(Fort Provintia)であり、明朝鄭氏時代の承天府であり、現在の赤崁楼である。

   「康熙台湾輿図」の台江内海という部分では、鹿耳門汛(清の水兵の駐在地)に媽宮(現在の鹿耳門天后宮)が設置されている。本図ではここで砲台3つが描かれ、海防の重要性を示している。一方、台江内海には多くの船が往来している。沿岸部に土砂の堆積問題があり、船の航行・停泊などに支障をきたすため、牛車を交通手段として、船と陸地の間で貨物を輸送している。
   昆身汛には、水兵の左・右・中営が設置され、三営の中間に紅毛城がある。それが、オランダ時代にゼーランディア城(Fort Zeelandia)と呼ばれた場所である。清康煕の『台湾府志』の記載によると、紅毛城はオランダ東インド会社(Vereenigde Oost-Indische Compagnie,VOC)の台湾行政長官のフレデリック・コイエット(Fredrik Coyet、漢名「揆一」)により、大れんが・桐油・灰を混ぜ合わせて築かれたと記されている。城壁にはそれぞれ鉄のくぎが打ち込まれ、城内は楼台のように曲がりくねっている。本図では、灰白色の円形という様子で表されている。

   「康熙台湾輿図」の南部地区は長い年月が経て色がほぼ消えてしまい、見えなくなっている。わずかに残されているのは「人跡未踏」の字、および、険しい山々に「傀儡番はこの山の後ろの石洞内」と特記事項として書かれているだけである。当時の清政府は、台湾の全版図を完全には把握していなかった。なお、傀儡番の境界線が特記されたのは、山間部の生蕃は非常に凶暴で危険であり、もしこの地を経由すれば、不測の事態に遭遇する恐れがあるからである。

各バージョンの照合

台湾博物館は、オリジナルの「康熙台湾輿図」(以下、「原本」と呼ぶ)を所蔵している。その他に、原本に類似した長幅の掛け軸地図2枚が所蔵されている。これらの模写地図は、原本ではすでに年月の故に傷んだ南部地域の図を補完している。康熙帝期の台湾における、北部から南部にかけての全体の様子を完全に映し出した。

この2枚の長い掛け軸は、「康熙台湾輿図」の模写(以下「模写」と呼ぶ)および、写本(以下「写本」と呼ぶ)である。

原本には深刻な損傷があり、多くの人の前で頻繁に展示ができなくなったため、模写の方がよく展示・出版されている。広く知られている「康熙台湾輿図」は全て、このバージョンの地図である。そして写本は、館内に所蔵されていても展示されていない。

日本統治時代における台湾総督府博物館の展示品リストから、学者が推測することは、本図の原本は貴重であるがもろくて弱いため、もう1枚を模写して展示に用いたということ。写本が絵になった時期はまだ不明だが、模写より遅れたと考えられる。

模写と写本は原本に基づいて描かれたが、筆先や色彩の使い方にはまだ違いがあり、にはまだ違いがあり、文字の欠落画像の違いもある。総括するならば、原本・模写・写本は書き方の上ではほぼ同じだが、色彩の使い方にだけ違いが見られる。写本の筆先と色使いは、原本・模写の繊細さには及ばないと考えられる。

原本と模写の照合(南部地区)

原本と写本の照合(南部地区)

筆先と色使いが異なる

原本

まず墨筆で、幾重にも重なった山石の輪郭を描き、それから披麻皴(麻の緒を開いたように細い線を重ねて描くもの)を用いて山石の凹凸変化が表現された。この絵の画家は、まず墨筆で林の枝を描いた。その後に、木の葉を雨点皴の技法で描いた後、石緑の色を塗り、林の茂みを表現した。色使いについては、まず赤土色をベースとして、山の向光面に石緑の色を敷き、バックライト面は青緑色で塗り上げ、光と影が変化する山脈を表現した。

模写

模写の山脈と林の描き方は、原本とほぼ同じであり、色使いのみに違いが見られる。山石は同じく赤土色がベースとして使われている。光に向かう面の色は、1種類は淡石青色を塗って赤土色を混合したもの。もう1種類は赤土色である。バックライト面は、渲染法(ぼんやりとにじませる方法)を使用して石青色を塗り、山頂は石緑色で彩られている。林は、石青色と赤土色を混ぜ合わせて描いている

写本

写本の山脈、林の描き方は原本・模写と同じだと見られるが、林の枝葉の階層はぼやけ、渲染法(ぼんやりとにじませる方法)を使用して深緑顔料を塗り、群林の奥深さと茂みを表現している。
色使いについては、山石は赤土色をベースとし、光に向かう面に深い石緑色と赤土色を使用した。バックライト面は石青色のにじみがきであり、山頂は白色と青緑色で彩られている。

文字の欠落

原本

原本に笨港汛の表記があり、その横に文字が書かれている。

模写

模写には、この段落の文字が抜けている。

写本

写本も模写と同じく、この段落の文字が抜けている。

異なる画像

原本

原本の人物は大半が男性である。上半身は裸であり、下半身は石青色の布だけで囲まれている。活動の様子は様々であるが、何人かの人々は弓・矢・槍を持って鹿や野ウサギを囲んで狩猟し、獲物を家に持ち帰る人も描かれている。他には、牛車に乗ったり、牛を追い立てるなどの様子が描かれ、清朝初期の台湾住民の姿を表している。

模写

模写で描かれた人物の部分は、原本とは異なる。例えば原本の鹿捕りは4人であり、下半身は青い布で囲まれ、中間は白い鹿、両側は茶色の毛に白点がある鹿という構図である。鹿が飛び跳ね疾走する動きと、鹿が驚いた表情を生き生きと描いた。模写の人物は3人しか描かれておらず、3人の下半身を囲む布は赤色・石青色・石緑色であり、それぞれ異なる。中間に配置されている白い鹿の姿は原本よりも力が欠け、体全体もだるく映る。

写本

写本の人物は原本に近い色が使われ、動物の輪郭を描く筆先の線も原本と同じく、力強く見える。しかし、原本のような真白な鹿とは異なっている。写本の白い鹿をじっくり観察すると、毛皮は多少薄い茶色であり、その上に白い斑点が加えられている。

参考資料

    1. 康熙台湾輿図
    2. 山中樵、「黄叔璥の台湾番社図」『南方土俗』第1巻第3期、29–36ページ、1931。
    3. 洪英聖編、『康煕台湾輿図を描く』、南投市:行政院文化建設委員会中部事務室、1999。
    4. 翁佳音、「『康煕台湾輿図』に関するいくつかの問題」、欧陽盛芝・李子寧編、『九十四年度博物館所蔵品保存保全計画と実務シンポジウム特集』、台北市:国立台湾博物館、143–156ページ、2005。
    5. 翁佳音・石文誠・陳佳慧、『康煕台湾輿図歴史調査研究報告書』、台北市:国立台湾博物館、2007。
    6. 李子寧編、『百年物語:台湾博物館世紀コレクション特展』、台北市:国立台湾博物館、2008。

所蔵機関

国立台湾博物館(以下台博館と称する)は、台湾で最も悠久の歴史を有する博物館である。その前身は、明治41年(1908)に設立された台湾総督府民政部殖産局付属博物館(台湾総督府博物館と略称)であり、展示されている文物を大別すると、歴史・人類・南支南洋・動植物・地質鉱物などが含まれ、戦前はすでに約1万点以上の陳列品に達していた。戦後は、台湾省博物館と改称された。民国88年(1999)行政組織再編により、虚省化が実施され、当博物館は文化建設委員会(現文化部)に移管された。そのために、同館は国立台湾博物館へと改称された。

台博館は、日本統治時代の台湾総督府博物館を受け継ぎ、現在の所蔵品は12万点を超えている。その中には、台湾の歴史資料・先住民の文化財・動植物標本・地質学標本が含まれている。まさしく、台湾史への認識を深めるための、展示品のショーケースの一つと言える。当館の所蔵品のデジタル化作業はすでに完了しており、現在は「国立台湾博物館デジタルアーカイブ情報システム」により、展示物を検索・閲覧することが可能となっている。 館前路に位置する本館では、台湾の豊富な歴史・人文科学・動植物などの収蔵品を展示する他、旧土地銀行における古生物館では常に展覧会が行われている。そして南門館では、昔の台湾樟脳産業の栄光時代に関する所蔵品が展示されている。鉄道部パークでは、台湾鉄道史に関する展示が行われており、台湾が現代化に向けて発展した軌跡を認識することができる。

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