宝石紅釉僧帽壺

宝石紅釉僧帽壺

国家宝蔵

国宝紹介

当作品「宝石紅釉僧帽壺」は明宣徳年間に作成され、国立故宮博物院に所蔵された。器体は真っ赤な色である。その色は、ルビーの濃色に満ちあふれ光沢もあるため、「宝石赤」と呼ばれた。僧帽壺の器座と木座に刻まれた「雍邸清玩」の字は、乾隆帝が自ら記し、匠によって彫られたものである。その点から見ても、この作品が皇帝に愛用されていたことがわかる。さらに、〈雍親王題書堂深居図屏〉(本名は『胤禛妃行楽図』)の一部、「博古幽思」と呼ばれる画軸(現在、中国北京故宮博物院に所蔵されている)の中に、美人の隣に位置するディスプレイラックがある。その上に、宝石紅釉僧帽壺が陳列されている

明朝宣徳年代においては、官窯による陶磁器の生産は大量とは言えなかった。だが焼成技術は優れており、器の種類が多いことに加え、釉薬の色も非常に多様であったため、多くの人に推賞された。明朝の張応文は『清秘蔵』「論窯器」に、「我が明朝においては、宣徳の官窯から出品された陶磁器は、質は精密で厚さもあり……一代の絶品である」と書き記した。特に赤釉を施した磁器は、宣徳の後には焼成技術が伝承されなくなり、釉薬が尽きたりしたため、ルビーのような濃い色付きがなくなった。当作品は貴重であるため、2019年に文化部から国宝として指定された。

国宝鑑賞

   壺口に沿った部分は、3段状に急に高くなった形で、僧伽帽の形に似ていると思われる。壺の柄は平たい如意形状であり、器体には赤釉が施されている。色は鮮明か、ルビーのようであり、器内と外底には白釉が施され、壺口の周り・輪足・直線が折れ曲がっている点には白い縁がある。その縁部分が、宣徳官窯の赤釉磁器の特徴の一つ「灯草辺」である。
   「灯草辺」は、磁器を焼く前の段階で、釉薬が施され、乾かす過程の中で釉薬が下向きに流れていくことにより、自然に模様をつけたもの。宣徳赤釉は層が薄く、流動性も高くない。そのため、焼かれ、そして融けた後には、壺口・足辺など位置に、白い縁が残りやすくなる。

   壺の蓋には宝珠ボタンが付いている。蓋面は三重の傘型であり、片側にひもを通す穴がある。もう片側は、とがった形に突き出し、注ぎ口にぴったりとはまっている。

圏足(底が机と直接触れる、高台状の部分)の裏には釉薬がなく、大部分は平らに削られている。これは、宣徳官窯の特徴の一つである。
宝石紅釉僧帽壺には、款識(署名捺印)がない。しかし、壺の底には、乾隆帝の詩が刻まれている:
「宣德年中冶,大和齋裏藏。撫摩欽手澤,吟詠識心傷。
潤透硃砂釉,盛宜沆瀣漿。如云僧帽式,真幻定誰常。」乾隆乙未仲春月御題
(乾隆40年,1775年)
「古香」と「太璞」、二つの印章がある。
壺の器座はシタンの木で作られている。底に刻まれた「雍邸清玩」の字は、乾隆帝が自ら記し、匠によって彫られたものである。その上に捺された印章は、「比徳」と「朗潤」の2つである。

参考資料

    1. 廖宝秀、『明代宣徳官窯菁華特展図録』、台北:国立故宮博物院、1998。
    2. 蔡玫芬編集、『精彩100:国宝総動員』、台北:国立故宮博物院、2011。
    3. 余佩瑾編集、『摶泥幻化:院蔵歴代陶磁器』、台北:国立故宮博物院、2014。
    4. 余佩瑾編集、『皇帝の多宝格』、台北:国立故宮博物院、2020。

所蔵機関

1925年10月10日に故宮博物院が設立された。中国清朝の皇室に収蔵されていた書画文物は数万点を数え、北京の紫禁城見学も一般開放された。1937年に日中戦争が始まり、故宮博物院の文物は南方に移転され、1945年戦後になりもとに戻った。1948年国共内戦のため、故宮博物院の所蔵品は台湾に移転され、台中霧峰北溝に一時的に保管された。その後台北外双渓に新館が建設され、1965年8月に完成し、11月に正式に外部に向けて開放された。そして2015年12月に、嘉義太保にある南院が正式に開館した。

故宮博物院のコレクションは、宋・元・明・清王朝の宮廷コレクションが元となっており、その後中央博物院準備処の運台文化財に統合された。収集・購入された文化財は約数十万点となり、続々とデジタル化された。それらのファイルは「故宮所蔵資料検索システム」に保管された。その中の一部の文化財のデジタルファイルは、すでに「オープンデータ(Open Data)」サイトに保存され、CC(クリエイティブ・コモンズ) に関し、適正な再利用の促進のために公共に向けて提供しています。

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